エピローグ 1 

例えば運命の人というものがいるとして。
約100年の人生の中で、その運命の人に出逢える可能性というのはどれほどの確率の出来事なのだろう。

もし出逢えたとして、その人と想いが通じ合うというのはどれほどの奇跡なのだろう。
運命の人。私の運命の人。

夏の青空のように闊達な笑顔。
涼やかな鈴音のように弾む清音。
短く整った爪、毛先の湿ったショート・ヘア。
あまり膨らんでいない胸と、くびれたウエスト。細い腰、すらりと長い手足、機敏な動き。
炎のような情熱を宿した瞳。

私の友人であり、師であり、姉であり、そして母であったひと。

私の全てを愛し、慈しみ、でもたぶん、受け入れてはくれなかった、やさしいひと。

その名を呼ぶたびに、私の胸は愛しさと痛みに灼かれていた――――。

 

約100年の人生の中で、運命の人と出逢い、想いを募らせ、通じ合い、その、奇跡。
愛の結晶を残せるのなら、その子の存在こそふたりの愛の軌跡に違いない。

では、遺せなければ?

残せなければ、そのひとたちの愛はなかったことになるのだろうか。彼らの中にだけ記憶され、
彼らが消えれば育んだその愛も消え失せてしまうのだろうか。

 

いいやきっと、誰かが覚えていてくれる。
祖父母の写真、父母の映像、知りもしない遠い親戚の結納、たまたま行き逢った結婚式。
見知らぬ誰かがきっと、覚えていてくれるから、だから愛は永遠を生きられる。
では、秘めた愛はどうであろう。

 

誰にも知られず、想い人にさえ知られず、この胸のうちに抱く愛は、私が憶えていなければいずれは消えてなくなってしまうのだろうか。
世界で一番強い力。この世でもっとも尊い誓い。人にだけ許された罪。愛とは、人の間で交わされぬだけで、こんなにも果敢なくなるものなのだろうか。
出逢い、募らせ、通じ合わぬ、そんなよくある話に隠された、それでも真摯だった想いは、実を結ばぬままに朽ち果て水底へと沈んでゆく。
他のよくある話の主人公たちは、次の愛を探して進むのだろう。進む勇気があるのだろう。
自分が女で、相手が男という、それだけで。
人は愛を探している。想いを通わせ肌を合わせ実を結ぶために。

ならば、そもそも実をつけられない私に、人を愛する資格などあるのだろうか。
通じなかった想いはどこへゆくのだろう。
胸のうちに秘めたまま、深いところへ沈んで凝って眠りに就くのだろう。
いずれ眠った恋が結晶化して、宝石のように私を飾るのだろう。
抱える傷が深いほど、重いほど、きっと私はうつくしくなる。
ならば、いまは、熱も、痛みも抱きしめて――――この恋、眠ろう。

ココアでも飲んで 2

ああどうか、暴れないでおくれ、恋心よ。

少女の吐息が冷利な冬の空気を切り裂く。
紺色のスカートが乱れるのも構わずに、彼女はまろぶように走る。
ちらちらと降る小雪が、年頃の少女の熱情に負けたように融けて消えた。

そんな雪のように儚いであろう青春を、ありがたがることもなくただ謳歌する少女は、卑怯なまでに真っ直ぐで、若かった。
栗色の髪はポニーテールに結い上げられ、セーラーカラーと入り交じって揺れる。すらりと伸びた脚を白いソックスで飾り、馴染んだローファーで濡れたアスファルトを蹴る。
上気した頬、太い眉毛、沈んだ睫毛、瞳だけきらきらと輝かせて、彼女は駆け抜けた。

札木美弥、十六歳の冬であった。

 
東京郊外にある住宅街の一画に、いつもいい匂いをさせている一軒家があった。からたちの生垣に囲まれた玄関には「OPEN」の札が掛けられていて、半開きになったドアの隙間からはふくよかな匂いが漂い出ている。
少しきしむドアを入ってすぐの部屋には、こんがりと焼けたきつね色のパンが所狭しと並べられていて、古い形のストーブがオレンジ色の明かりを灯していた。冬でも暖かい店内にはブーランジェも兼ねた女店主が一人いて、のんびりとした空気を壊さない程度にせかせかと動き回っている。

まどろんでいるのに生き生きとしている。小さなパン屋は美弥の大好きな空間だった。
「セーフ!」

店のドアを壊さんばかりの勢いで飛び込んできた少女に、パン屋の女店主は苦笑しながら立ち上がった。その腕には美弥が濡れていることを予見してか、バスタオルが抱えられている。雪の日の少女が傘を差さないことなど、もうとうの昔に記憶済みなのだろう。

「おかえり美弥ちゃん。またそんなに走って、転んだら危ないよ」
「だいじょーぶだいじょうーぶ」

笑いながら、美弥は雇い主の手からバスタオルを受け取った。ふわふわのタオルからは甘い柔軟剤の香りがする。もしかして、このひとと同じ匂いなのかもしれない。

そわそわと体を揺らす美耶を微笑ましく眺めながら、彼女は首を傾げる。短い前髪のおかげで、形のよい額があらわになっていた。ああ、触りたい。冷えた手のひらを押し当ててやりたい。

「美弥ちゃん、奥に制服掛けていらっしゃい。ココアでも飲んで準備をしよう」
「あ、はあい!」

高校まで徒歩で通っている美弥の通学路にパン屋が出来たのは、つい二ヶ月ほど前のことだった。
ベーカリーの店主は安賀多雛子という女性で、店の名前はずばりアガタベーカリーという。

自身をブーランジェと言って憚らない雛子だが、店の名前は同じフランス語であるブーランジェリーではなく、ベーカリーなのだ。なぜかと尋ねれば、そのほうが分かってもらいやすいからだと言う。確かに。

美耶が、古い一軒家を改装したベーカリーの存在を意識したのは、毎朝いい匂いを漂わせている半開きのドアのせいで、その中身を注視したのは、父親がたまたま買ってきたパンのためで、その店主を知ったのは、ベリーショートの後ろ姿を見かけたときだった。

ようこそ、アガタベーカリーへ 3

ある日の夜、帰宅した父親のぶら下げていた袋を検めていたときのこと、美耶は香ばしい香りに目を瞬かせた。ごはん党の父親が、なんとパンを買ってきたのだ。それも、コンビニやスーパーで売っている既製品の菓子パンではなく、ちゃんとしたベーカリー製の本格的なパンである。

なんの変哲もないバターロールに見えた。けれど、きつね色に焼けたパンはふわふわで、なのにしっかりとした噛み応えがある。外側は見た目にも舌にも香ばしく、白い中身はほのかな甘さがある。そして芳醇なバターのコク、香りがふわっと広がって、なのに少しもくどくない。こんなにも美味しいパン、食べたことがない。

驚いた少女はその本能の命ずるまま、眠たげな父親を叩き起こして、パン屋の場所を聞き出した。

父親が買ってきたパンを食べた翌日、店の壁にアルバイト募集の貼り紙を貼っている女性を見つけた美弥は、衝動的に声を掛けていた。

「あの、」

まだあどけなさの残る少女の声に、彼女は勢いよく振り向いた。
ベリーショートの赤い髪、薄手のシャツに、おうとつの少ないすらりとした体。ロングのエプロンを腰に巻きつけた姿は、一瞬性別の判断がつかない。中性的な少年のようだった。

促すように首を傾げられ、美耶は口を開いた。スクールバッグが肩からずり落ちそうになる。

「バイト、募集してるんですか?」
「え? ああ、そうなのよ」

彼女は馬鹿みたいな顔で笑いながら、壁に貼り付けられたA4サイズの手書きの募集用紙を指差した。

「夕方から夜まで店番してくれる子、探しているの。あなたしてくれる?」

お金はたくさん出せないし、交通費もないのだけれど、とまた笑う。そこはべつに笑うところではないのではないかと思いながら、美耶はなにも言わずにただ頷いた。その屈託のない闊達な笑顔が一瞬で好きになったのだ。

「したいです。バイト」
「えっ、本当に?」
「はい。うちから歩いて来れるから交通費いらないし、時給も、なんでもいいです」
「なんでも? でも、うちの時給これだよ?」

と、見せられた紙に書いてある時給は、この辺りの最低賃金と同じだ。けれど、それでも構いやしない。ここで働きたい。働かなければいけないような気がする。

それは、ただの勘と言ってしまえばそれまでだが、美耶は自分のこの直感がなんとなく好きなのであった。

「大丈夫です。私、昨日ここのパンを食べて、感動したんです。いままで食べた中で一番美味しかった……あのパン、あなたが作っているんですか?」

「そ、そうだよ……」

唐突な賛辞に虚を衝かれた女性は、見る見るうちに顔を赤くした。褒められ慣れていないのだろうか。

「そう。それで、本当は今日、パンを買いに来たんです。でも、バイトしたい。お願いです。私をここで雇ってください!」

勢いよく頭を下げると、栗色の髪の毛がふわりと揺れた。お人形のような少女からの突然の告白にただ驚くだけだった彼女は、ふと眦を緩めてきひひと笑う。

「面白い娘だねえ。で、今日はなにを買いにきてくれたのかな?」

ああ、そうだった。

「バターロール、ください。あと、他のパンも食べてみたい」
「じゃあ、どうぞ」

そう言って、美耶は半開きのドアから店内へと案内された。
香ばしい香り。暖色の店内で、焼きあがったパンたちが壁の棚に所狭しと並べられ、整列し、静かに呼吸している。
ぼんやりと店内を見回していた美耶の肩に手を置き、その白い貝殻のような耳元で、彼女が囁いた。

「いらっしゃいませ。ようこそ、アガタベーカリーへ」

今日のメニューは 4

「雛子さん、今日のメニューはなんですか」
ココアの甘い香りを嗅ぎながら、美耶は女店主を仰ぎ見た。

ベーカリーを営む雛子は、12月に入って料理教室を始めた。近所の主婦を集めた小さな教室だけれど、それなりに盛況しているようだ。これも美耶のおかげだと雛子は笑う。

客の多い夕方から店に出ている美耶がいるおかげで、彼女は教室を開けるのだと言うのだ。けれど美耶は、感謝される必要はないと感じている。だって、美耶がいたくてここにいるのだから。
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その話はまた今度 5

教室が終わり、後片付けまでをすっかり終わらせると、美耶の仕事はおしまいだ。
いつもならばこの時間にはもうそろそろ眠る準備をしている雛子は、週に一回ある料理教室、つまり休み前の残業に眠たそうにあくびした。

「雛子さん、眠い?」

「そうだねえ……少し」

「寝ててもいいよ」
年下女子の言葉に、ベリーショートはカラカラと笑う。
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いつも一人なので 6

のんびり紅茶を飲みながらキャラメルスコーンをつまんでいると、店の呼び鈴が鳴る。素早く立ち上がった雛子が出て行き、数分後には、訪問者と一緒に談笑しながら帰ってきた。

壮年の男性。ストライプの入ったスーツと、豊かな黒髪。ふちなしのメガネの奥の眼差しは到って優しい。笑うと目元に皺が寄って整った顔と柔和な雰囲気で、四十に差し掛かろうとしている現在でも女性に人気があるというけれど、本当だろうか。
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おそらく、生涯 7

手に持っていた袋の中身はこの間教室で教えていたものと同じシュトレンローストビーフで、それが絶品だということを知っている美耶は飛び跳ねて喜びを表す。まったくもって子どものようだと自覚はあったものの、はしゃぐ心を抑えきれない。もちろん、食べ物よりも雛子の存在に、だ。

「いらっしゃい、安賀多さん。せまっ苦しいところですが、どうぞお座りください」

瑛一郎の言い草に雛子が笑った。十二畳のリビングダイニングの隣は六畳の和室で、今夜の会場はまさにそこなのであった。 “おそらく、生涯 7” の続きを読む

恋って不思議 8

目覚めた美耶は、雛子の帰りを途中まで送って行くことにした。まだ時間もさほど遅くはなかったし、雛子と一緒にいたかった。近所のコンビニへ行きたいと言えば父親は用意に許可をくれた。
寒空の下、吐き出す息は白い。唐突に、美耶は雛子が自分を呼んだことに気付いた。風に紛れて、ほんの小さな声で。

「雛子さん?」

呼べば、雛子は美耶に向き合う。マフラーに埋まった口元は見えない。肌は真っ白で、頬はまだ赤い。涙目で、いいや、涙を流しながら、雛子は囁いた。 “恋って不思議 8” の続きを読む

待っててね 9

栗毛色の髪がふわりと揺れる。
夏の熱気は日が落ちても引ききらなくて、少女はこめかみを流れる汗を手の甲で拭った。
学校からの帰り道ではあるけれど、通りがけにベーカリーを覗くと、そこはもう閉まっていた。母は家に帰っているのだろう。

もやもやとした得体の知れない感情を抱えながら、少女は自宅の方角へと足を向けた。
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つかれた 10

『ぁ、あ……んぁ、は……ひ、あ、あっ』

遠くで聞こえる衣擦れの音。荒い吐息。美耶は思わず顔をシーツに伏せた。
下半身が重くなるのを自覚する。
そろりと指を伸ばし、胸元を探る。
淡く色付いた部分を布越しに引っ掻くと、意思とは関係なく筋肉が痙攣した。

「ん、んっ」

漏れそうになる声を噛み締めて、美耶は体を震わせる。
堪らずブラジャーをはずし、唾液を掬って胸先につけ、凝った実を抓んだ。 “つかれた 10” の続きを読む