帝国(10)|箱庭の国

濃いピンク色のLのような形をしたおもちゃを、瑠璃が取り出した。いくつか持っているバイブと同じ、スワンシリーズ、カナダから輸入された双頭バイブで、名前はエターナル。本当に、いい名前だ。二人にとっては皮肉が逆に望みにすら感じられる。

スイッチを入れると、低いバイブの音が耳に届いた。L字の短い部分の先端、卵型をした場所を、瑠璃が自分の秘部に押し当てる。
「ん、くぅ」

膝立ちのまま、瑠璃はそれを自分の中に収めた。白い下腹部からは、濃いピンクのバイブが、まるでそそり立つペニスのようにして生えている。

まさに、生えているという表現がぴったりだ。L字の片方を体内に収めると、まるでペニスが生えているように見えるのがこのおもちゃの売り。女の子同士でも感じ合いながら、セックスできる。抱き合える、夢のような商品で、だからこそ二人とも欲しくなったのだ。
「いれるわよ」

掠れた声で、瑠璃が告げた。
「い、れて」

潤んだ声で、ひよりが応えた。
「んっ」
「あ、ああぁ」

シリコンのすべらかな触感。強く振動しているものが、中に潜り込んでくる。
「はあ……ひより……」

瑠璃が体を倒し、ぎこちなく腰を動かす。触れ合った肌が熱い。
「あっ、あっ」

快はさほど強くない。けれど、これには何物にも代え難い悦びがある。
「ひより、すきよ」
「アッ」

ぞくぞくとした快感が腰から脊髄を通り、脳に達する。ぶわわっと麻薬のようなものが分泌されるのが分かった。思考がピンクに染まる。
(ああ、)

だめだ。離れられない。

瑠璃と離れられない。

このぬくもりを、手放せるわけがない。

「るり」
「ひより」
「瑠璃、考えよう」

誰かを不幸にしたっていい。嘘をついたっていい。何年掛かったっていい。

ずっと、一緒にいる方法を考えよう。

「いつまでも」
誓いのキスは密やかに。

 

これは、箱庭の中でだけ存在する物語。

あるいは、シュレーディンガーの猫箱

それは、外界からはけして覗き見えない、花園に降る驟雨の隙間を縫って行われる茶会。

円舞を踊り続ける少女たちの物語。

【数年後、藤ノ条グループと狛桐グループは新分野の開拓にあたり、業務提携することを発表した。これには、両家当主が学生時代の級友であったことが大きな要因であるとされている。夫を得てなお二人は仲の好い友人同士であり、しばしば休日を共に過ごすところを目撃されている。】

その帝国はいつまでも朽ちずにそこにある。誰かが箱を開けない限り、ひみつは永遠に続く。

帝国(9)|自由とは

「あ、あ、はっ」

ひくっと体が痙攣する。黒い羽根がひよりの肌の上っ面を撫でて、焦らす。さっきからずっとそれの繰り返しで、ひよりは唇を噛んで頭を降った。
「も、やだあっ」

油断すると、体内で複雑に振動するローターの刺激をもろに感じ取ってしまう。すると、ひよりの意思とは関係なく手足が引き攣って、つらいのだ。

いかせて、とひよりは泣いた。手枷が皮膚に食い込む。汗を掻いている。
「おねがい、るりっ」
「では、約束なさい。定められたそのときが来るまで、わたくしのそばから離れないと」
「する、するからっ!」

素面であってもひよりは頷いたであろう。それほど当たり前なことだ。けれど瑠璃は即答が気に入らなかったらしく、ひよりの乳首をぎゅうと摘み上げた。
「いあっ」

痛みさえも、いまは快感にしかならない。

瑠璃がひよりに顔を寄せた。こつんと額を当てて、彼女は尋ねる。
「本当に、分かっているのでしょうね?」
「わかってる、もんっ」
「――――わたくしが、この言葉を言うのにどれほどの勇気がいったかも?」
「え、?」

瑠璃は、真摯な眼差しでひよりを見つめていた。
「貴女が好きよ、自由なひより。貴女から自由を奪うのは貴女を殺すのと等しいのかもしれない。けれど、手放せない。そばにいなさい。花ノ宮にいる間は、わたくし以外を見ることは許さない」
「瑠璃」

不覚にも、どきっときてしまった。瑠璃がこんなに強い言葉を使うなんて。
「……ねえ瑠璃、手、外して? 瑠璃のこと、抱きしめたいの」

懇願すると、目元を朱に染めた瑠璃は、ゆっくりとひよりの手首の戒めを解いた。革の手錠で拘束されていた場所は少し赤くなっていて、それもまたいい。瑠璃に求められてるって実感できる。
「私は瑠璃から離れない。それは私の意志だよ。私は自由だ。だから、瑠璃のそばにいるの」
「ひより……」

白い耳朶に吹き込むように囁いて、ひよりは瑠璃の体を抱き寄せた。大好きな瑠璃。出来ることならば、一生こうしていたい。

しばらくそのままで抱き合っていた二人だが、ちょっと中が限界だったので、そっと体を離した。体を丸めて、脚の間に潜り込んでいるを引っ張り、ローターを出す。抜け出るときに快感があったが、もう内部は痺れてしまっていた。

瑠璃は、そこを慰撫するように指を這わせ、ひよりのお腹にキスを落とす。実は、今日は本命があるのだ。瑠璃とひより、二人が望み、お金を出し合って買ったもの。

ピンク色した、双頭バイブ

帝国(8)|なま殺し

「力ずくって意味、色々考えたのだけれど」

黒い羽根の束のようなものをゆっくりと振りながら、瑠璃は言う。まるで羽根扇のようなそれで、一体今度はなにをするというのか。

「要するにあれよね。わたくしが、ひよりに飽きられないように色々と趣向を凝らし、体を繋ぎとめればいいのよね」
「なんでそうなったの! 不純!」
「あら、もともとわたくしたちは不純な関係じゃない」

それを言われるとなにも言い返せません。

「これはLELOのタントラよ。綺麗よね、くすぐるためにあるのよ」
「な、なにを?」
「あら、分かってるくせに」

瑠璃はそれを持ち替えると、羽根の先端でひよりの首筋を撫でた。
「はあっちょっ、くすぐったいっ」
「まだ、そうかもね」

こしょこしょと擽られて、ひよりは体を粟立たせる。我慢できないほどでもないが、快のような不快のようなものが体の中を駆け巡るのは、好きではない。
「アッ」

不意に乳首を撫でられて、背筋が反った。頭上で手錠の鎖が音を立てたが、手が抜けるわけもない。

「おまたにはこれ挟んでなさいな。貴女の好きなピコボンのホニよ」
「ああんっ」

濃いピンク色のローターを脚の間に押し付けられて、ひよりは喘いだ。力強く振動するそれを小陰唇と大陰唇で包むようにして、そこに放置する。乳首を羽根で擽られるぞわぞわする快感と、溢れ出る愛液によってぬるぬると動いてしまうローターに翻弄されながら、ひよりはこの行為に意識を沈めていく。

「やあ、あ、あっ」
「ひより」
「おねが、るり、っ……あてて、した、あててっ」

懇願すると、瑠璃はまたいやらしく笑う。挟んでいるだけのローターでは、ひよりの気持ちいい場所を上手く刺激することができない。もっと強く当ててほしい。ひよりは明確な快感がほしい。

「お願い、瑠璃」
脚を開いて、ひよりは瑠璃に懇願した。
「しようがないわねえ」

ふっと息を吐き、瑠璃はローターをひよりの秘部に宛がう。そのまま肉芽を刺激してくれるものだと思っていたのに、瑠璃はそれの先端を、口を開きつつあった粘膜へ押し付けた。
「あ……あぁ……はいって、くるっ」

それなりの大きさのあるローターが、ひよりの胎内を分け入ってくる。一定の場所まで入ると、後は締め付けによってにゅるんっと入ってきた。その感覚がたまらなくてひよりは息を吐いた。

力強い振動が体内を駆け上がる。同時に羽根扇を使われて、気持ちのいい場所にどうしても届かないじれったさに、皮膚が痙攣した。

帝国(7)|革の手枷

「ひより、温室にストーブを持って行って頂戴。今日はあそこで寝ましょう」

書類から顔を上げないままの瑠璃の言葉に、ひよりは快く頷いた。

明後日は始業式、そしてその翌日は一年生の入学式だ。瑠璃の仕事はほとんど終わりつつあって、もうここへは来なくても大丈夫そう。でも今度は寮に帰還した生徒たちが溢れ始めたため、もう少しだけこの静寂に浸っていたくて、二人は今日も寮を抜け出してきた。

そして瑠璃がもろもろの書類のチェックをしている間に、ひよりが寝床を整えているというわけ。
「瑠璃、準備できたよ。まだ掛かりそう?」
「あと二枚…………先に行っておいていいわ」
「うんわかった。布団あっためとくね」

電気ストーブを置かれた温室は、まだ肌寒い。それでも天蓋を掻き分けてベッドに潜り込むと、そこはほのぼのと暖かかった。石油ストーブを用意出来ればよかったのだが、生憎年明けに故障してしまっていた。それに、眠るときにつけっぱなしにするのはちょっとばかし危なさそうでもある。

「ひより」
「ここだよ、瑠璃」

応えると、瑠璃が黒く長い髪を揺らして天蓋を潜り抜けてきた。さっさと制服を脱いでしまって、それどころか下着まで脱ぎ捨てた瑠璃は、ひよりの隣に潜り込みながら呟いた。

「さすがに寒いわ」
「でしょうよ!」

笑いながら、ひよりは瑠璃の体を抱き寄せる。ひよりだって、もう全裸だ。素肌での触れあいは止められない。こんなにいいにおいがして、こんなにあったかくて、やわらかくて、すてきなものがかつて存在しただろうか。瑠璃を抱きしめながら、ひよりはいつもそう思うのだ。

「ねえひより、目を瞑っていて?」
「ん、なあに?」
「いいから」
「ん……」

命じられた通りに目を閉じると、両腕を掴まれた、手首になにか巻きつけられている感触。まさか、と目を開けると、少女の両手首には黒い革の手枷が絡み付いていた。

「な、なに、これ」
「ええとね、貴女まえ言ってたじゃない?」
手枷をベッドの頭上に固定しつつ、瑠璃は微笑う。

「力ずくで繋ぎ止めて、って。だから買ったのよ。サーペント柄の、手枷、黒なの。ひよりによくに合うわ」
「似合っても嬉しくない! てかちょっと、瑠璃さん? おかしな方向へ行ってません?」
「気のせいじゃないかしら」
「あっ」

はぐらかすように肩を竦めて、瑠璃はそっと、ひよりの胸元へキスを落とした。紅く色づいた可愛い突起をくすぐられれば、体の内側で熱が生まれる。春の夜に溶ける。

帝国(6)|期限付き

ひよりは、あまりの衝撃に硬直していた。暑くもないのに汗が胸元を流れる。鼓動が速まった。それは、己の心のどこかにあった考えを見透かされたと思ったからだったのかもしれない。

瑠璃と、ずっと一緒にいたいと思っている。けれど、それは叶わない願いと知っている。知っているからこそ、ひよりはこんなにも瑠璃をあいしてる。

瑠璃と一緒にいたいのは本心だが、いつまでも瑠璃と一緒にいようとは思っていない。瑠璃と逃げるほど、心は定まっていない。

ひよりは父親に恩を感じている。母と共に捨てられて、ずっと怨んでいたはずだったのに、筋を通して、探し出して、頭を下げてくれた。その瞬間に、すべて許したのだ。ひよりが無為に過ごしたのと同じ十五年で、新しい伴侶を娶り、跡取りをもうけることが出来るはずだったのに、彼はそうしなかった。ひよりと母を、二人だけを、愛してくれた。

だから、恩を返そうと思っている。父親の言いなりに結婚する。狛桐にとって最もいい縁談を、ひよりは選ぶ。他でもない、自分の意思で。
「…………瑠璃」

理由は違えども、思いは彼女も同じだろう。ひよりの言いたいことを覚ったかのように、瑠璃は暗闇の中で身動ぎした。

「ええ、これは期限付きの関係なのだわ。それは知ってる。わたくしもひよりも、いずれは男の方と結婚して、子どもを産まなければいけない。でもそれまでは、貴女を独り占めしたいと思っているのよ、わたくしは。――――結婚は、それは、いいの。覚悟していたことだから。御家のためにと思えば、それがわたくしのことであれ貴女のことであれ、我慢が出来る。正しくなくとも、御家のためだと自分を騙せる」

こういう定めだったのだと、ひとはいつでもそうやって己を偽る。運命だなんてちゃちな言葉を使ってみたりして。

「赦せないのは、貴女が、わたくしの目の前で、まったく無関係の男性に心惹かれること。どこの誰とも知れない馬の骨に、ひよりが奪われること」
「そんなこと、あるわけないよ」

苦笑が漏れたが、瑠璃は存外本気のようで。
「いいえ、ありえるでしょう。……貴女は、外を知っているから」
「知ってるからこそだよ、瑠璃」

外の世界を、男の子たちをそれなりに知っているから、それはないと断言できる。
「私は、親が決めた相手以外とは付き合わない。そう決めてる。それにいまはなによりも、瑠璃のことが、好きだから。――――でも、そんなに心配なら、力ずくででも繋ぎ止めて?」

帝国(5)|籠中の鳥

執務室の空調をつけると、凍りつくほどだった部屋は徐々に暖かくなってくる。ついでに隣の部屋の空調も入れた。そこにはベッドがあり、代々の生徒会長が仮眠を取るための場所に使われている。たまに温室のベッドで寝ることもあったが、さすがに寒いので、冬場はここを使うことが多い。

生徒会長の仕事が一段楽するまで待ってから、二人はベッドへと潜り込んだ。温度は執務室より少し低め。二人で寝るのでそのほうが都合がいいのだ。
クイーンサイズのベッド。ほとんどくっつき合って、二人は眠る。否、ひよりは眠っていない。なんだかひどく目が冴えていた。ちいさく少女の名を呼ばう。すると、思いのほかしっかりとした返事が返ってきて、瑠璃も眠れないのだと覚った。

「ねえ、瑠璃は大学には行かないの?」

暗闇に目を凝らしながら、ひよりは尋ねた。
花ノ宮は大学までの一貫校である。水無月先輩のように高校卒業と同時に家に戻る生徒も多いが、大学に進む生徒だって多い。四年制大学だから、ここで過ごす倍は一緒にいられることになる。

「私は行くよ。瑠璃も行くなら、卒業しても、一緒にいられるよ」

それは先ほどの呟きに対する返事だった。あと一年で卒業。その瑠璃の言葉の裏には、はっきりと、卒業したくないという意思が見えていた。
それはつまり、ひよりと離れたくないということ。箱庭の外に出たくないということ。だが、大学に進むとなれば、話は変わってくるのではなかろうか。

「行く、予定だけど」
「けど?」
瑠璃は珍しく口篭る。再度促してやっと、彼女は口を開いた。

「大学は、外だわ」
「うん?」
「寮じゃない」
「ああ」

花ノ宮が寮制なのは高校までだ。大学からは一般の生徒も入るため、寮などはない。その代わり花ノ宮に通っていた少女は、二つあるキャンパスのうち、片方へ優先的に入学できる。柵はないが、お嬢様用というわけ。

もちろん多少は部外者の入学もあるが、青山にあるキャンパスの入学生がほとんど部外者だという点では、より箱庭に近い。

「寮じゃないと嫌なの?」
尋ねると、瑠璃は逡巡し、やがて呟いた。

「昔、小鳥を飼っていたの」
「小鳥?」
「わたくしにとてもよく慣れていたわ。でも一緒に庭に出たら、飛んでいってし

まった……わたくしよりも、自由な空を選んだの」
瑠璃は小さく、その胸のうちに抱えていたであろう思いを吐き出した。

「ひよりは、自由を生きてきた鳥だわ。籠から出たら、もう戻ってこないかもしれない」

帝国(4)|道しるべ

「星が、よく見えるわね」
ひよりの手を握りながら、瑠璃が囁いた。
「うん。すごいね」

寮から生徒会棟へと向かう、森の中の道。舗装されていないそこは、一種厳粛な空気に包まれている。夏は肝試しでも出来そうな森であるが、二人ならば、そこは一気にロマンチックな場所へと変化した。

見上げれば、濃紺の絵の具を流したような初春の夜空に、白金の星が煌めいている。

たくさん。ほんとうにたくさんの、輝く星。そのどれもが光を反射しているだけだなんて、到底信じられることではない。

「去年もこうやって星を見たわ」
瑠璃は静かに言った。
「水無月先輩とよ。でも、わたくしは独りだった」
「うん」
「ひよりが来てくれるまで、わたくしは、独りだったの」
「……うん」
握り締めた手が少し震えた。

藤ノ条瑠璃は、家でもここでもその仮面を被り続けてきた。利発で気の強い性格を押し殺し、頭脳明晰才色兼備のお嬢様。優しく聡明な瑠璃さまとして、ずっと生きてきたのだ。これから先
もそのはずだった。それを破ったのが、ひよりだったのだ。

ひよりは瑠璃の秘密を暴いた。瑠璃はひよりに本性を曝した。いまとなっては分かる。それがどんなに稀有なことなのか。どれほど奇跡に近いのか。

瑠璃の、ほんの少しの気まぐれ。それが、少女たちの運命を決定付けた。期限付きの恋だったから、想いはこんなにも、一息に燃え上がった。

彼女は星を見上げたまま、静かに呟いた。
「あと一年したら、わたくしたちも卒業なのね」

白い息が、夜の空気に溶けて消える。瑠璃の鼻は赤くなってしまっている。そんな姿ですら絵のようにうつくしく、瑠璃の輝きに目が慣れることはないのだろうとひよりは思う。
「――――瑠璃は、いまでも綺麗だけれど、きっとすごく美人になるよね」
「ひより?」
「二十四の瑠璃はすっごく綺麗で、もうほんと、モデルじゃないかってくらい。三十の瑠璃も、四十の瑠璃も、おばあちゃんになっても、きっと瑠璃は一生美人なんだ」
「………………」
「私は、おばあちゃんになった瑠璃も見たい。ずっと、そばで、綺麗になっていく瑠璃を見ていたい」
でもそれは叶わぬ願いで、だから少女の関係はこんなにも清く、刹那く、果敢ない。
分かっているから、瑠璃はなにも言わなかった。ひよりも、なにも言わなかった。

「――――すっかり冷めちゃったね。風邪ひかないうちに行こう」
「ええ」
少女たちは歩き出す。森の奥へ、彼女たちにしか見えない道しるべを辿って。

帝国(3)|生徒会棟

春休みになると、寮はほんとうに静かだった。多少の学生は残っているはずだが、大半が親元へ帰っているため、そして学年丸々一つ分の生徒が不在のためだろう。

寮部屋の移動も学年ごとに日をずらしたおかげで問題なく終わり、瑠璃の部屋は最上階の最奥になった。代々の生徒会長が使ってきた部屋で、その前の持ち主はあの水無月誠先輩だ。

家柄や成績などによって決められる部屋割りだが、ひよりの部屋は瑠璃の四つ隣になった。もう少し離れるだろうと思っていたが、一応生徒会に入っているので、そのことが考慮されたらしい。けれどまあ、微妙な距離ではある。

そんな瑠璃とひよりは、近頃あまり寮に帰っていなかった。
否、帰っていないというのは正確には正しくなくて、朝や昼など必要なときには寮にいる。けれど、寝るのはもっぱら生徒会棟というわけ。

生徒会長である瑠璃は現在未定の総寮長も兼任する立場にあり、とても忙しいのだ。食事の他は生徒会室にいて、なにごとかの仕事をしている。そしてその側には、常にひよりがいた。

ひよりまで付き添わなくていいのかもしれないが、瑠璃が忙しいときにぼんやり自室で過ごすこともどうにも出来なくて、ましてや実家に帰るのもなんだか微妙で、結局瑠璃に付き添って毎日登校しているのだ。もちろん、内申に影響するとかそういうことはない。強いて言えば、先生方の心象が良くなるくらいだろうか。

 

その日の夜も、瑠璃とひよりは生徒会棟へと向かって歩いていた。

夕食と入浴を済ませてさっぱりした後だが、少女が身に纏うのはおくゆかしい制服だ。生徒会長とその秘書として夜間の学校への外泊が特別に許可されているが、学校の敷地内に入るには制服を着用する必要がある。

もちろん、少女たちに異論はない。というか、寝巻きで学校に行くなんて瑠璃は許せないだろう。そのあたり、しっかりと躾けられたお嬢様だ。ひよりはと言うと、ちょっと普通じゃない感じがして心惹かれるが、積極的にしたいと思うわけでもない。ひよりも一年かけて、少しずつここに馴染んできたのかもしれない。

これが普通の学校だったら、パジャマパーティーとか言って、さぞ楽しい祭りが開催されることだろう。先生からこってり絞られるおまけつきで。

普通の学校、普通の生活。ここに入ってからそれをよく考える。普通って何なんだろう。ひよりの考える普通と瑠璃の考える普通はどう違うのだろう。違うからと言って、どうだっていうの。

帝国(2)|愚かな娘

「メールアドレス教えてください。フリーのでもいいですよ」
笑うひよりに呆気に取られていた水無月先輩は、はっと我に返ると苦笑して懐から携帯電話を取り出した。

「ひよりちゃんには敵わないな」
画面を操作しながら彼女は呟く。
「私は、自分のことをここの子たちとは違うと思っていたけれど、ひよりちゃんを見るとそうでもないような気がするよ」
「褒め言葉ですか?」
「うん、そう。私にそんな風になんの臆面もなく、緊張もせずに話しかけてくるのは貴女たちだけよ」

藤ノ条瑠璃と狛桐ひより。対照的な二人の後輩を見つめ、水無月先輩はにやりと笑った。

「まあ、藤ノ条は、ひよりちゃんが入ってくる前からかなり攻撃的だったけど?」
「それは貴女がふざけてばかりいるからです」
すまし顔の瑠璃。先輩はふふんと鼻を鳴らす。
「でもさ、藤ノ条は、ひよりちゃんが入ってきてからだいぶ表情が柔らかくなったね。人形みたいだったのが、生気を帯びたって言うのかな。よく喋るようになったし、丸くなった? 割りに、私には冷たいし。聖女様はどこ行ったのさ」
嘆きのような軽口に、瑠璃は表情を崩さず言う。

「クラスメイトにはばれましたから」
「なに、そのお人形さんみたいな被り物が?」
「べつに、なにか被っていたつもりはありませんでしたが、結果としては、それです」
「ふうん。そっか」

水無月先輩は嬉しげに、そしてどこか寂しげに微笑む。ひよりは、なんとなく気付いていた事実を改めて目の前に突きつけられたような気になっていた。
水無月先輩は、瑠璃のことが好きなのだ。おそらく、瑠璃とひよりが互いを想い合っているのと同じような感情で。

瑠璃は、水無月先輩がひよりに構うと言う。それが嫌だと。けれど、そうではないのだ。水無月先輩が本当に構っているのは瑠璃。ひよりに触れることによって、過大に反応する瑠璃のことを構っている。

だからひよりは。彼女のことを損な人だと思っていた。ひよりのいなかった一年の間でもっと違うアプローチをしていたなら、もしかしたら、狛桐ひよりと水無月誠の立場は入れ替わっていたのかもしれないのに。
(私って、嫌な女だな)
寂しくなると思いながら、恋敵になり得るかもしれなかったひとが、遠くへ行くのを喜んでいる。

水無月先輩はそんなことすらも見通しているかのように、凪いだ眼差しを眩しそうに細めて、瑠璃とひよりを見つめ続けた。持っては行けない光景を、記憶に刻み付けるかのように、愛しむ。

帝国(1)|花と別離

花園はまだ固いつぼみに閉ざされた冬の終わり。天候は生憎の曇り空。それでも旅立たねばならぬ時は来る。
仰げば尊しと口ずさむ、少女たちの啜り泣きが聞こえる。

底冷えするホールの中で厳粛に執り行われているのは、先輩方の卒業を祝う式。嗚咽は、彼女たちの旅立ちを寂しがる下級生たちのものと、級友や箱庭との別離に胸を痛める卒業生のものが入り混じっている。
今日よりに数日のうちに、先輩方は箱庭を遠くはなれ、それぞれの居場所へと去ってしまう。寂しさに浸る間もなく、二年生と一年生は寮の部屋を移動しなければならない。そして、新入生を迎えなければ。
ひと月も経てば、ひよりも瑠璃も、最上級学年へと進級する。

生徒会特別棟の中庭にある温室。天蓋を張られたベッドと簡素なガーデンテーブルのセットを使うことができるのは、生徒会役員の中でも極僅か、棟の鍵を預かる者だけに許された特権だ。
水無月先輩は、その特権から離れたものの、最後の日もこうやって当たり前のようにチェアに腰掛け、ひよりの淹れた紅茶を飲む。

「世話になったね」
「いいえこちらこそ、水無月先輩にはご指導いただくばかりでした」
向かいに座った瑠璃は、今日ばかりは殊勝そう。少しくらい、寂しいと感じているのかも。
「――――さびしいねえ」
ぽつりと落とされた言葉には、ひよりなどには窺い知れぬ、深い苦悩が滲んでいる。それに、安堵も。
「もう貴女たちに会えないだなんて」
「そんな、大袈裟な」
思わず笑いが漏れた。
「生きていれば会えますよ」
「そうだろうか」
水無月先輩は真顔でひよりを見上げた。
「ひよりちゃん、卒業した後に二度と会えないひとのほうが、ずっと多いんだよ。――――どこに住んでいて、誰と結婚したか、子どもの名前さえも知っているのに、会えない。もう会う気もないのかもしれない。ここでは仲良く過ごしていても、我に返ってみればライバル会社の令嬢同士ってのもよくある話だ」

すっかり籠の中の鳥のようで、彼女はそんなことを言う。瑠璃も、反論もせずにただ紅茶を啜る。ひよりは呆れて肩を竦めた。まだ子どもなのに、なんでそうも先のことまで考えるのか。
「会えばいいんですよ」
「ひよりちゃん」
「今の世の中なんでもありますよ。電話もメールも自分一人のものがあるんだから、会おうと思って会えないはずがないです。少なくとも、私は卒業してからも、クラスの友だちと連絡を取り合うつもりです。もちろん、水無月先輩とも」