甲府盆地の暑い夏(28)星空

阿川がそのことを直前でやめたのは、
脳裏に一人の女性の顔が浮かんだからだった。

阿川はスマホを手に取り、番号を押した。

「はい!どうしたんですか阿川さん。
電話してくれるなんて珍しい」

受話器の向こうの笑顔が想像できるような
明るい声で、美智が電話に出た。

ついさっきまでカナダ人女優としていたこと、
しようとしていたことを思うと、
阿川は美智の声を聞くのが後ろめたかった。

「……お話があるんです。
今からそっちに行ってもいいですか」

「えっ、今からですか?」

夜の11時だった。
美智の家に着く頃には12時を過ぎるだろう。

まだ恋人にはなっていない女性の
家に行く時間としては、完全に非常識である。

「こんな時間に申しわけないです。
大事なお話なんです」

「……分かりました」

阿川の思い詰めた様子が伝わったようだった。

電話を切ると阿川はタクシーを呼んだ。
まだ酔っているから、
自分で車を運転していくわけにはいかない。

そのタクシーが来る前に
急いでシャワーを浴び、着替えた。

水を大量に飲み、酔いをできるだけ覚まそうとした。

それからさっきエリーとの行為で使った、
気圧式の勃起補助器具を紙バッグに入れた。

タクシーが来た。
阿川は北杜市に向かった。

車が甲府の市街地を出ると、
道路の周囲は田畑になる。
街路灯以外、ほとんど光が無くなる。

すると10月の澄んだ空気の上に、
信じられないほどの数の星が現れる。

阿川がその美しさに呆然としながら
窓の外の星空を見ていると、
車は美智の家の近くに着いた。

小高くなっている美智の家への坂を登っていると、
庭先に人がいる。
細い体が、暗闇の中で待っていた。

阿川が庭まで上がると、美智が駆け寄ってきた。

「何かあったんですか!?」

いつから待っていたのだろう。
美智の顔が青くなっている。

盆地は寒暖の差が激しい。
日中熱い代わりに、夜は急激に冷え込む。

さらに北杜市のこの場所は標高が高い。
もう10月なかばのこの日、この真夜中、
東京で言えば12月並の寒さになっていた。

その寒さの中、美智は自分のことではなく
阿川のことをひたすら心配して待っていた。

阿川は美智の顔を見た時、
自分は間違っていなかったと思った。

阿川は美智を安心させるため、
珍しく微笑を顔に浮かべた。

「……いえ、違うんです。
俺の身に危険があったり、
そういうことじゃないです。

待っててくれたんですね。ありがとう。
さ、中に入りましょう」

阿川は美智の背中を押すようにして、
一緒に家に入った。

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