甲府盆地の暑い夏(14) 夏の始まり

kofu14梅雨が明けた。
「本州で最も暑い場所」になることも時々ある、甲府盆地の夏が始まる。

建物から外に出ると熱気のかたまりが正面から体にぶつかってきて、すぐに引き返したくなる。
盆地特有の、高い湿気を伴う強烈な暑さ。

もっとも東京都心も、これに負けず劣らず厳しい夏だった。
あっちではいたるところから冷房の室外機の熱風が吹き出しているし、ビル群の反射光もある。

この日は、坂井美智のところへ最後の原稿をとりにいく日だった。
阿川は例によって、美智のとりとめもないおしゃべりを聞いていた。

「それでそのハリーポッターの新作ですがあのハリーがもう還暦ですよ。
早いですよね。ついこないだまで子供だったような気がしませんか?

還暦って変ですかね。
イギリスに還暦はないですね。

でも一緒に見に行く人がいないんですよ。
友達はみんな結婚して家族がいるので土日になかなか家をあけられなくて」

阿川も例によってふんふんと聞いていたが、ふと気がつくと来てから30分が経過しようとしていた。

 

 

「それでは坂井さん、3ヶ月間本当にありがとうございました。
読者からも好評で、感想や問い合わせが来ているみたいですよ。
また書いていただく機会がありましたら、よろしくお願いします。
それから中央新聞の方も、引き続きごひいきにお願いいたします」

阿川は立って玄関に向かった。
ドアを開けて出ようとし、背後に気配が無いので振り返ってギョッとした。

椅子に座ったままうなだれて、うちひしがれたように微動だにしない美智がいた。

窓の外では、ジーワジーワとアブラゼミのけたたましい鳴き声が響いていた。
しばらく待ってみたが、美智は動かない。

 

 

このまま帰るのも気が引けた。
例えば心臓に持病があり、急に異変が起こったという事も考えられないではない。

阿川は靴を脱いで美智に近づいた。

「坂井さん。さ・か・い・さーん!!」

見えているのか確認するため、目の前で手を振ったりした。

美智は目が覚めたようにハッとして、急に立ち上がり、頭を下げた。

「ごめんなさい!お帰りになるのにおかまいもしませんで……本当にありがとうございました」

「大丈夫ですか? 何かお体に不調でも?」

「あ、いえ、それは全然……大丈夫です」

という美智は全然大丈夫そうではなく、また少し青い顔でうつむき、そのまま黙った。

 

 

外では相変わらず、アブラゼミが大合唱している。
よく聞くとミンミンゼミも混じっている。

阿川は参った。

そういう美智を見てこう言ってしまったのは、EDと異動で心が弱っていたせいかもしれない。
さらには先日東京に行った時に菜々緒と苦い再会をしたせいかもしれない。

 

 

「あの、なんでしたら……映画行きます? ハリーポッターの」

「へっ!?」

美智は目を丸くした。

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