18話 『雨に濡れた花』

「一杯だけ、どうかな?」

雨は小降りになっていた。

終電までにはまだ時間があった。

いつもならホテルを出ると、
駅の改札の手前で小さく言葉を交わして、
自然と離れるようにして
別のホームへと足を急ぐのだが、
今夜の室生は酒を呑みたがった。

「だって先生、血糖値が」

「日本酒は我慢する。
焼酎ならいいって医者から言われてるんだ。
だから、一杯だけ」

断る理由もなかったので、
瑞樹は室生の二の腕に腕をからませた。

紺の暖簾が脂とタレで汚れたモツ焼き屋に入り、
カウンターの椅子を二つ見つけた。

室生は芋焼酎のロックを、
瑞樹は緑茶ハイにした。

「いつもと違う、先生」

居酒屋に一緒に入っても、
飲むばかりでほとんど食べない室生なのに、
今夜に限ってシロやカシラのタレ串を
何本も美味そうに食べた。

「ここのはいけるよ。モツが新鮮だ」

そんなに若い女を抱けたことが嬉しいのだろうか。

それとも瑞樹の中に射精しなかったことを
申し訳なく思っているのだろうか。

老人の薄い精液で、
もしも妊娠したらというのは見栄なのだろうか。

とにかく室生はいつもより饒舌で、
作詞家で少し売れていた頃の思い出話しを語った。

「悪かったかな。つきあわせちゃって」

改札のそばで、
少し二人で立ち話をした。

「いいんです。
どうせ今夜もうちの人、遅いから」

「旦那さんと仲よくね」

「はい」

こういうのが、
抱いた人妻への逃げの台詞
とでもいうのだろうか。

室生はいつものように片手を小さく上げて、
瑞樹を残して改札に入り、
埼玉方面のホームに上がっていった。

座席は空いていたけれど、
瑞樹はドアにもたれて、
夜の車窓を眺めながら帰った。

雨はやんで、空には月が出ていた。

そうだ、明日は洗濯ができる。

駅前のコンビニで、
漂白剤とアイスクリームを買った。

マンションに着いてドアの鍵をはずして
ノブを回すと、室内の灯りが漏れてきた。

「おかえり」

勇一がキッチンでラーメンを茹でていた。

「早かったのね」

「ああ、届けてもらった書類が
すんなり通っちゃってね。
なんだか拍子抜けしちゃった」

「食べてこなかったの?」

「毎週、金曜はいつも外だったから、
たまにはね」

エプロンをして、
夫が菜箸でかき回している鍋をのぞきこんだ。

「煮込みラーメン?
だったら野菜とか」

「いいよ、これで」

「すぐできるから」

冷蔵庫から野菜をいくつか出し、
フライパンで炒めた。

勇一はカウンターで缶ビールを飲みながら、
珍しく妻が料理をする後ろ姿を眺めていた。

「その格好で行ったの?
作詞教室」

「どうして?
書類届けてそのまま行ったから」

「いや、よく似合ってるなと思ってさ」

ラーメンの鉢に炒めた野菜を盛りながら、
瑞樹は心臓の鼓動が早くなるのを感じていた。

赤い小さなパンティを着けていることだけは
知られたくなかった。

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